絵描き好きな人に知ってほしい感性や基準の大切さ

小学校の時の図工の時間を覚えているだろうか?

国語、算数、理科、社会と眠たくなるような授業とは違って

僕にとっては体育と同じくらい好きな科目だった。

 

自由に絵を描いたり、粘土で造形物を作ったり

みんなで協力して大きな鯉のぼりの作品を作った事もあった。

自分の頭の中をいろんな想像でいっぱいにさせて

独自の作品を作っていく。

時には鉛筆で自画像を描いたり、水彩絵の具で風景を描いたり

実際に見ているものを思い通りに描く難しさを感じた時もあった。

 

その教育は意味があると思うし、その時に養った感性があるから今があるのだと思う。

だが、芸術に関して独自の視点はあっても明確な基準は養われなかった。

むしろ、みんなが良いと思っているものは良くて

悪いと思っているものは悪いといった足並みを揃える感覚しか持たずに

大人になったといってもいいかもしれない。

 

日本の芸術教育において重要なのは、その基準を養う事なのではないかと思う。

 

■批判を嫌がる日本人

批判を嫌がる日本人

誰かが描いた作品に対して、それはその人の感性で作り上げた芸術品だと一言で言ってしまえば

誰がどんな作品を作ったとしてもみんな同じような評価になる。

でも、作品の良し悪しが分かり、その基準をしっかりと持っている人がいるから

芸術の世界は成り立っている。

 

フランスのように芸術に触れる環境が日本よりも多く存在していて

教育もしっかりと時間をかけて行う環境があるのであれば

一部の人達だけが楽しむのではなく、国民全員が芸術の楽しみ方を知っている環境が作られる。

 

じゃあ環境は違うにしても日本の教育とフランスの教育と明らかに違う部分は何なのか?

それは作品に対する批判だと僕は思っている。

 

クラス全員に同じ絵を描かせて教室の後ろに飾る。

みんな足並みを揃えて「頑張って良い絵を描いたね」という達成感だけを感じて終わってしまう。

 

その作品に対して相手の描いた絵の良い部分悪い部分は何なのか?

自分と比較してどうなのか?

自分より劣っていると感じた作品、優っていると感じた作品は何が違うのか?

 

全員で対話する時間は一切無かった。

 

相手を批判するというのは、その作品を否定するのではなく

自分の作品と比べて、周りの作品と比べてどう違うのか?

について真剣に話し合う事だ。

 

その話し合いをせずに描いた作品に対して自己満足だけで終わってしまい

良し悪しの基準も養われず、独自の世界観だけが独り歩きしてしまうから

美術館に行く人も限られた人ばかりだし、芸術への関心が低いのではないかと思う。

 

■比較する文化が感性を高める

比較する文化が感性を高める

作品について良し悪しを話し合うような場を設けてしまうと

今の足並みを揃えて個性を伸ばさない学校教育とは反対の方向へ進む事になるのかもしれないが

これからの時代はその個性こそが必要になってくる。

個性を伸ばすことが時代を生き抜いていく最大の武器になるのだ。

 

AIが発達していくと人間が出来る事の半分以上は機械がしてくれる環境になるのだから

何でもまんべんなく出来るようなゼネラリストは必要ない。

むしろ何かに特化したスペシャリストが今まで以上に必要な世の中になる事は目に見えている。

 

そのスペシャリストを作る為に必要なのが感性であり

様々なことを判断する基準を持っているか持っていないかだと思う。

 

自分の考えと相手の考えのズレや一致を認識できる基準を持っていて

ズレていると分かりながら作る作品と

ズレていると分からないまま作る作品とでは

まったく同じものを作ったとしても違うものになる。

 

相手を批判できる力は、そうした考えのズレや一致に対して

様々な話し合いの経験の中から構築されて、平均的な感性と独自の感性が交差する時に初めて

相手を批判できる基準を持つことが出来るのではないだろうか。

 

芸術において教育の方法はいろんな形で見直されるべきだと思うが

まずは、批判できる力を養う事で芸術に対して興味を持てる環境を創る事が大切だと僕は思う。

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